浄土宗の宗祖法然上人は、承安五年(一一七五)源信の『往生要集』を手引きとして、唐の善導大師の『観経疏』を読み、その一説「一心専念弥陀名号(※1)」の一文を発見し、一向専修の念仏に帰入した。この宗教的回心を以て浄土開宗という。法然上人の説教に耳を傾ける僧俗が日増しに多くなり、法然上人の吉水の禅房を訪ね、入門する者が多くなった。こうした門弟の中に、念仏往生の理解に、多念から一念に至る幅広い流儀が生じ、特に成覚坊幸西などは一念義を提唱し、師法然を困らすことになった。法然上人は、これを邪義と判じ、わが弟子にあらずと擯出したのであった。
その幸西の弟子で善心房(※2)なる者が、越後において、盛んに一念義を布教している旨を、越中に在住する多念の行者光明房が、一念義を「心得ぬこと」として師の法然上人にその正邪を問い合わせたところ、法然上人は承元三年(一二〇九)に「一念義停止の起請文」(『漢語灯録』では「遣北陸道書状」という)を送り、一念義の異端なることを説き、制戒したという。
建暦二年(一二一二)正月二十五日、法然上人入滅にあたり、十三歳より十八年間、常随給仕の弟子勢観房源智上人は師恩感謝と念仏結縁による浄土往生の趣旨のもとに、大規模な念仏勧進運動を展開した。同年十二月二十四日、三尺の阿弥陀仏の立像を造立し、この胎内に造立願文と五万人余に及ぶ結縁衆の交名を封入した。これは「玉桂寺阿弥陀仏像胎内文書」と呼ばれ、昭和四十九年五月、滋賀県甲賀郡信楽町玉桂寺にて発見された。
この結縁光名中の文書に「越中国百萬遍勤修人名」なる文書が所収されており、これによれば、越中一国に止まらず北陸一帯の在地有力人士結縁交名が多数見受けられる。強いて交名の人名を国別に分けてみると大体次のようになる。
【越前】三国氏、ツルカノ氏(敦賀氏)
コシノ氏(越迺氏)、ニフ氏(丹生氏)
【加賀】三枝部氏、林氏、道氏
勢多氏、額田氏、加賀氏
【能登】能登氏、ハクイノ氏(羽咋氏)
【越中】トナミ氏(砺波氏)、黒部氏
【越後】三嶋氏
この交名の姓氏は地域的な地名などを付す姓氏を拾い挙げたものであり、このほかに古代的な姓氏である源平藤橘は云うまでもなく、清原・中原・秦・物部・大宅などの姓氏が無数に出る中で、みられるものである。中でも注目できるのは、加賀は古代的な色彩の強い氏族の姓氏が見られ、中世に活躍する富樫・倉光・安宅などの姓氏がみられないのは、どういう理由だろうか。いずれにせよ、在地の有力豪族の間に、源智上人の百万遍念仏に結縁する者が多数あったことをこの交名は物語っている。
「遣北陸道書状」や玉桂寺文書の「越中国百萬遍勤修人名」などは法然上人の晩年から滅後早々にかけての北国地方の専修念仏の流布が幅広くあったことを物語る資料である。勿論、建永の法難において、法然上人門下の綽空(後の親鸞)が越後に配流されたことも、その影響の一つとして見逃せない。
(『金沢市史 資料編13寺社』より一部引用)
(※1)
「一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」
(一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に)
(※2)
幸西の弟子について『九巻伝(『法然上人伝記』)』では善心房とされている。