刺繍仏涅槃図(絹本地刺繍仏涅槃図)
年代 江戸時代 天和三年(1683年)
法量 総 縦272㎝ 総 横191㎝
画面縦191㎝ 画面横163㎝
「勧進主 弘願院二世中興到蓮社眞譽協称信翁叟」
「願主 南町ハルタ屋 久譽 宗栄 堤町ハカマ屋 春譽 盛久
堤町ハカマ屋 心譽 法順」
画面周辺(表具の総縁部分)の全面、さらに表装の裏側一部及び、風帯の裏側に結縁者や発願主、勧進主などの戒名・俗名等の人名が刺繍で記載される。画面内の会衆のいくつかに戒名人名等が色々に刺繍されている。軸背面に「昭和二十七年八月吉日 表装替修理 当山第二十七世 學譽代(以下略)」の修理銘
墨書あり。金沢市指定文化財(昭和53年)
寒山拾得図(かんざんじっとくず)
年代 江戸時代
法量 画面縦88.5㎝ 画面横86.5㎝
作者 心岩
中国,唐の伝説上の2人の詩僧。天台山国清寺の豊干禅師の弟子。ともに世俗を超越した奇行が多く,また多くの詩を作ったという。しかし,これらの事績はすべて,天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる『寒山詩集』に付せられた閭丘胤 (りょきゅういん) 名の序,および五代の杜光庭の『仙伝拾遺』に記された伝説に発するもので,寒山,拾得の実在そのものを含めて真偽のほどは確かめがたい。
心岩は江戸時代前期、17世紀後半に活躍した画僧である。金沢市泉野寺町(現在の寺町)の浄土宗大円寺第三世住職。横蓮社縦誉と称し頑夢と号した。僧名を「心岩」といい、俗名は「佐傳次」という。生家は本性を「加波氏」という。
心岩は正保四年(1647)の生まれ。二十六歳で出家し、泉寺町の浄安寺の面譽上人について修行する。心岩はその後、下総(現在の千葉県)にある大巌寺の乗譽上人に学び、次いで貞享二年(1685)江戸の傳通院の貞譽上人に師事する。心岩がいつ大円寺の住職となったか定かでないが、『加越能寺社由来』に「…従開山拙僧迄三代罷成申候…金沢泉野寺町浄土宗 大円寺 縦譽 貞享弐丑年十月廿七日」とあることより、少なくとも貞享二年には先代の後を継ぎ大円寺第三世になったと考えられる。そして仏画を描いて浄財を集め、元禄十三年(1700)現在の寺地を得て寺を再興する。
その後、江戸に出て増上寺の心光院に住持したが、宝永元年(1704)幕命を受け、将軍徳川綱吉公の生母桂昌院の墓所に慧照院を建てる。大円寺・心光院・慧照院の三ヶ寺を兼務して金沢と江戸とを往来したが宝永三年(1706)六十歳で江戸にて没する。
絵の多くは仏画であり、それらは主として浄土宗の寺院に多く伝えられ、伝心岩筆といわれるものも含めると「阿弥陀二十五菩薩来迎図」や「山越阿弥陀図」「浄土曼陀羅図」「二河白道図」「六道絵」など浄土教に関する内容のものが多い。また、「苦行釈迦図」や「出山釈迦図」「十六羅漢図」「豊干禅師画像」「拾得図」「達磨図」などの道釈人物図、「希玄道元頂相」などの頂相画といった禅宗関係の絵画も制作している。