一条派の進出

法然上人は入滅に当って、「あとを一廟にしむれば遺法あまねからず」と、精舎建立の不要なることを説いた。しかし、法然上人の遺跡と称する所には寺廟が建立されたが、ほとんど旧仏教の施設の一部であって独自に遺跡の他に寺院を建立することはなかった。けれども応安元年(一三六八)八月、北陸道の関門越前国敦賀の原の地に西福寺なる民衆の手になる寺院が開創されたのである。西福寺の開創を語る「大原山縁起」(『西福寺文書』所収)によると、越前府中出身の僧良如によって開創されたと伝える。

 

良如は、本来、越前の平泉寺で出家し、叡山で修学した天台宗の僧であったが、のち、鎮西一条派の道場たる洛陽・清浄華院の敬法(同院八世)に嗣法して浄土僧となった人物である。師敬法は伏見天皇の皇孫といい、また、その弟子の定玄は万里小路仲房の息で、浄華院第九世となり、万里小路家と師檀の関係を結び、清浄華院は朝廷や公家との関係が深く、自然と京畿浄土宗の中心となって栄えた。

 

その良如が、故郷越前において融通念仏による結縁によって、敦賀の原に西福寺や府中の正覚寺を建立した。応永三十二年(一四二五)十二月十五日付の「浄鎮置文」(『西福寺文書』所収)によると、良如は一紙半銭の奉加を募って西福寺を建立し、その後惣塔を立て、奉加の志の人々の納骨を行い、追善回向を施し、現当二世の利益を説いたのであった。こうした念仏結縁の方法は前項でみた源智の百万遍勤修人名などの結縁と同じ方法をとっているところに注目したい。永享二年(1430)西福寺は本寺清浄華院の直末という関係を強めた。かくて敦賀の西福寺・武生の正覚寺を足がかりに越前・北近江・若狭を膝下におさめて北陸の諸国へ念仏布教の拠点をつくりあげたといってよい。

(『金沢市史 資料編13寺社』より一部引用)

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